防災福祉のきっかけ

自宅に戻った頃、先に一階から何とか脱出した母が、近所の人に、助けをもとめていました。母も足はガラスが刺さり血まみれでしたが、その時は痛くなかったと後日談で言っています。

姉は数時間埋まっていましたが、近所の協力で、屋根瓦をはいで、のこぎりで木材を切る地道な作業になりました。

(母のガラス片は、震災後の神戸病院では、対応不可でした。神戸の病院は当時どこも戦場で、ガラス破片位では、順番がきません。そのことから、スリッパをベッド脇などにおいておくように今はしています)
(姉の件については、近所の人の多くが、全壊ではなかったので、すぐに避難をはじめ、手伝ってもらえる人が全然いなかったという現実もあります。マスコミは災害時は、まずは『避難』『避難』と安易に言いますが、我先にと、軽症者から避難してしまい、神戸の街でも、人ひとりいなくなり、生き埋めのまま、気づかれになくなった方も多くいることも伝えるべきだと思います。)
(つづく)