震災18年。あの日我が家で起きたこと。

1995年1月17日、5時46分。

我が家には、その時刻で止まったままの時計があります。


「関西では地震が起きない」という神話が当時あったように思います。

そんな人々の観念を覆した阪神大震災。(※少し重い記事になってしまいましたので、合わない方はスルーしてください)



都市型直下型の地震は、多くの人生を奪いました。

今なお後遺症で悩む人もたくさんいます。



家屋が全壊、姉はしばらく生き埋めに。

外傷がなく神戸の病院では診察できず、翌日大阪の病院で「頭がい骨骨折」と診断された。

両親は、両足ガラス片が刺さり、こちらも軽傷で診察できず。

住んでいた東灘区の南部は修羅場と化した。



5時46分は、外は真っ暗。暗闇の中、光を探し、なんとか外に出ようとしたが階段はくずれ、2階からの景色が1階になっていたことに気付いたのは、少し明るくなってからのこと。扉という扉が全部開かなかった…。



両親との安否確認は天井ごしだった。両親の声は聞こえるものの、姉の声だけがずっと聞こえなかった。



どれくらい経過したのだろう…。今では時間すら覚えていない。ただ、寝間着一枚裸足で外に出たときの凍えるような寒さだけは今も思い出せる。



両親は1階が倒壊した中、どのように出てこれたのかわからない。足に刺さったガラス片の痛さもその時にはわからなかったと後日言っていた。



数時間経っても、姉の声だけが聞こえない。私は近くの消防まで駆けつけたが、消防署は既に全員出払っていた。「住所と状況をメモしてください」という張り紙だけがあった。もちろんその後、消防が来ることはなかった。普段ある常識が災害時には通用しないことがたくさんある。



再び、戻ると近所の方がのこぎりを持ってきて、姉の救出を手伝ってくれた。瓦をすべて取り払い、人力で木材を切っていく…。しばらくして、かすかに姉の声が聞こえた。まわりにいた人たちの励ましの声が一層大きくなったことを思い出す。



お昼前だったのだろうか…。姉が大人数名に抱えられて救出されたのは…。私は小雪が降り始めた光景と共に、その後の人生においても経験したことのない感情がこみ上げた。



震災で、たくさんの人が亡くなった中で、頭がい骨骨折という後遺症は残りながらも姉は生きている。

姉も複雑な人生を歩んだだろうし、家族としてもそれぞれの震災がある。

家屋全壊ながら、生きることが許された。その後の人生において、無駄なく悔いなく一日を生きようという今のスタイルは震災からなんだと思う。



震災当日、友人のお母さんが亡くなった…、近所のおばちゃんが亡くなった…、学校の先生が亡くなった…、と情報が入ってくる。

今改めて振り返ると、「死」が当たり前にやってきて、悲しみを感じる余裕もなく、家屋に埋もれた知らない人達の救出に向かう人々。そんな非日常なことが18年前の神戸にはたくさんあった。



私は姉の救出の後、避難所で高齢者の方々のお世話をしていたような気がする。若者が外に駆り出されていたため、避難所は超高齢化。避難所ゆえに、普段の生活以上に介護が必要になっていた。

1995年というと、介護保険前でまだまだ「介護」はメジャーではなかった頃。私は私のできることだったのだろう。




その後、姉の頭痛、大阪での診察に向けて、夜中に避難所を後にしていくのだが、思い出せばきりがない。また、震災による父の失職や認知症のこと、8か月の小学校体育館生活、2年半の仮設でのことを細かく振り返ると莫大な文章になってしまうので、このあたりで振り返りを一度終えようと思う。





あれから、18年。

1月17日の前日は、やはり寝つけなかった。毎年のことだが、寝るのは怖い。

18年目も同じ時刻に黙とうをしたが、当時に戻されるような気持ちになる。

色々なことが甦る一日。

神戸の東遊園地(公園)にいると「風化」は全く感じないが、関西圏のテレビを見ていると、その時刻の10分くらいしか特集も組まれていないので、本当に震災があった日なのだろうかと思ったりする。



私自身、震災から10年はあんまり思い出したくもなかったから、震災から遠ざかっていた。実際、今も振り返りたくない被災者は多い。思い出したくない遺族も多い。その気持ちもしっかりと捉えた上で、私は10年を境に、伝えれる人が伝えていくことが大事ではないだろうかと思うようになった。そして、伝えることで「減災」につながり、救われる命も出てくるのではないかと。



「自然界の猛威に対して、人は無力」とよく言われるが、それでも立ち向かい可能性を信じたいと私は感じる。福祉分野の防災取組みや、子供たちに向けた「子育て防災」も、あのときの被災した感情が解決できていないから、今も訴え続けているのだと思う。



今年も震災の同時刻、真っ暗闇の外を歩いた。突き刺さる寒さの中、外にいることで解る感覚もある。18年前もこんな寒さだった。一瞬の静寂と叫び声が今も耳に残る…。




暗い話ばかりも、どうかと思うので、記事の最後に、被災地の中での「希望」をお伝えします。



長い避難所生活の中で、いつも無料で届けられた毎日新聞社の「希望新聞」

ここには、どこどこのお風呂屋さんが無料開放始まりましたとか、救援物資がどこどこに届くなど、被災地に密着した新聞となっていた。その名のとおり、被災地の希望新聞だった。



4月、震災から2ヶ月半、春休みを使って学生ボランティアが来るようになった。当時は、ボランティア元年と言われるくらい、まだまだボランティアの確立はされていなかった。多くは物資の配布や行政からの指示で動くことが多かったが、小学校にはそれ以外の自主的学生ボランティアもいた。



「私は、何もできません。でも、肩たたきはできます。肩たたき、させてください!」

という文字を段ボールに書いて、体育館にやってきた学生。多くのお年寄りの笑顔をつくった。



長引く避難所生活で、小さな子どもたちの笑顔がなく、復興に追われている大人もかまってあげれていないことにいち早く気づき、運動場で子供たちと一緒に走り回る学生ボランティア。



ボランティアの知識がなくたって、技術がなくたって、肩たたきやかけっこはできる…。

大きな団体でなくとも、個人でできることもたくさんある。



私が避難所生活で学んだことです。



その後も、落語家、歌手など、続々とボランティアさんが見えました。

あのときいただいた温かいハートは、私の中に今も残り、今度は自分がお返しする番だ、といつも感じます。





震災で失ったものも多かった。

でも、たくさんの温かいものをいただいたのも震災だった。




今日から、19年目の阪神大震災。まだまだ、伝えたいことがある。